浮見堂の動物たち:戦時下の日本で行われた動物園の猛獣処分

歴史

浮見堂の動物たち:戦時下の日本で行われた動物園の猛獣処分

1943年8月から、日本政府は全国の動物園にライオン、トラ、クマ、ゾウを殺させました。福岡・大濠公園に建つ朱色のお堂は、そうした動物園のひとつが今に残した数少ない形見です。

動物園から来たお堂

大濠公園の島に建つ六角形の朱色のお堂「浮見堂」は、もともと公園のために建てられたものではありません。福岡で最初の動物園の、アシカ・オットセイの池のために建てられた建物です。大濠公園の公式サイトによると、東公園にあった動物園のオットセイ池に建っていたもので、1949年に大濠へ移されました。福岡市の文化財パンフレットは、アザラシなどの海獣を眺めるための建物で、保存のために移築され、2014年に市の文化財に登録されたと説明しています。

その動物園の歴史はわずか10年9か月でした。福岡市は市民の寄付を大きな支えとして1933年に開園し、1944年5月20日に閉園しました。そして6月6日、ライオン、トラ、カバが処分されました。

これは福岡だけの判断ではありません。今ではほとんど知られていない国の政策の一部であり、英語でこの問題を一冊にまとめた本は伊藤真由美氏の『Japanese Wartime Zoo Policy: The Silent Victims of World War II』(2010年)しかありません。本稿は彼女の研究に沿って、誰が命令を出したのか、なぜか、動物たちがどのように殺されたのか、飼育員や子どもたちが何をしたのか、そして福岡に何が残っているのかをたどります。処分の様子を詳しく記述していますので、ご注意ください。

命令

発案したのは一人の人物、初代東京都長官の大達茂雄であり、命令は内務省を通じて全国の動物園に伝えられました。研究者、動物園長、動物園の専門家の見方はこの点で一致していると伊藤氏は書いています。

大達は東京帝国大学で法律を学んだ内務省の生え抜きの官僚でした。1939年から40年にかけて内務次官を務め、1942年にはシンガポール(昭南と改称)の市長および陸軍の軍政官となります。1943年7月、戦争遂行のため東京市と東京府が統合されて東京都が誕生すると、その初代長官に就任しました。翌年には自ら内務大臣となります。

内務省は地方行政と警察を所管し、戦争に協力しない人々を検挙する特高警察もその中にありました。動物園長は公園課長に、公園課長は内務官僚に報告する立場でした。この指揮系統の中では、誰も地位やそれ以上のものを失う覚悟なしに命令を拒むことはできなかった、というのが伊藤氏の指摘です。

軍用動物慰霊祭での花子(1940年)

すでにあった計画

1941年8月、陸軍東部軍の獣医部が上野動物園に空襲時の非常措置計画を求めました。園長代理の福田三郎が作成した「動物園非常処置要綱」は、動物を危険度に応じて4つの等級に分けたものです。第1類にはクマ、トラ、ヒョウ、ライオン、カバ、アメリカバイソン、アジアゾウなどが含まれ、第2類にはオットセイやアシカが入っていました。空襲が迫った際には危険な動物を硝酸ストリキニーネや青酸化合物で毒殺し、毒が効かなければ銃殺する、と定められていました。

この計画は空襲のさなかに実行するためのものでした。大達はそれを、事前に行うものへと変えたのです。

1943年8月中旬

ジャーナリスト高宮太平の記述によれば、1943年8月中旬、大達は東京都の公園課長・井下清を呼び、動物園について尋ねました。井下は、空襲時には動物を毒殺し、必要なら銃殺する準備ができていると答えます。大達が、動物より先に人が被害を受けたらどうするのかと問うと、井下は答えられませんでした。

高宮によれば、大達の返答は、動物はいずれ処分しなければならないのだから、今のうちに「うまいやり方で」やったほうがよい、というものでした。事前に知れば軍や警察が反対するかもしれないので、知らせる必要はないとも言ったといいます。8月16日、井下は福田に命令を伝えました。危険な動物を1か月以内に処分せよ(福田の日誌の別の箇所では8月31日まで)。極秘扱いで、近隣の住民に銃声が聞こえないよう、銃ではなく毒を使うことが求められました。

警視庁は後になって、誰からも知らされていなかったと苦情を述べています。

軍の命令だったのか

軍が命じたものだと考える人は少なくありません。伊藤氏は上野動物園の歴史に詳しい小森厚氏の見解に沿って、処分そのものについては「軍の命令」はなかったと論じています。決めたのは内務省で、軍は国内の防衛についてはその判断に従ったというのです。ただし、一部の動物園では現地の部隊が実際に圧力をかけました。後で述べるように、京都と熊本では最終的な命令を出したのは陸軍の将校でした。

愛国的な衣装で芸をするキーコ、アドン、エルド、マカニー(左から)。東山動物園、1938年10月

なぜ行われたのか

公式の理由は市民の安全でしたが、本当の目的は市民を怖がらせ、戦争へと動員することだったと伊藤氏は結論づけています。表向きの懸念は、爆弾で檻が壊れ、ライオンやトラが街に放たれることでした。

公式の理由が成り立たない理由

  • 時期。1944年より前に日本本土が受けた空襲は、1942年4月のドーリットル空襲の一度だけでした。上野動物園が動物を処分したのは1943年8月で、B-29による東京空襲が始まる1944年11月より15か月以上も前のことです。
  • 代わりの手段は容易だった。檻を補強する、防空壕を造る、閉園する、動物を地方へ疎開させる、といった方法がありました。疎開を試みた園長もいましたが、上野では長官がそれを拒みました。
  • 餌の問題ではなかった。動物園は餌や燃料に困っていましたが、内務省は動物の福祉には関心がなく、動物園は餌の自給に懸命に取り組んでいたと伊藤氏は述べています。
  • 救出への反応。福田がゾウのトンキーを仙台へ送る手はずを整えると、大達は激怒しました。井下によれば、大達は「殺せと言ったのだ、助けろとは言っていない」と言ったといいます。

研究者の見る本当の理由

伊藤氏が引用する専門家たちは、心理的な目的があったという点で一致しており、彼女はそれを三つに整理しています。

  • 戦争を実感させるため。軍は市民に、敵機が首都に来ることはないと伝えていました。シンガポールで実際の戦場を見ていた大達は、そうではないことを知っていました。動物園で最も有名な動物たちを前もって殺すことは、人々を驚かせ、空襲が来ると信じさせる手段だったのです。
  • 流言を防ぐため。当局は、空襲を受けた動物園から猛獣が逃げ出したという話を敵のスパイが広め、混乱を招くことを恐れていました。動物がすでに死んでいれば、その噂は生まれようがありません。
  • 感情の向かう先を変えるため。動物への人々の同情を、処分を「必要にした」とされる敵への憎しみへと向けさせることができました。

上野動物園長の古賀忠道は、処分は「目的ではなく手段だった」と書いています。京都市動物園の獣医だった滝沢氏は、だからこそ動物を静かに餓死させるのではなく毒や銃が使われたのだと論じました。餓死では衝撃が小さく、動物園への抗議を招きかねなかったからです。歴史家のイアン・ミラー氏は、疲れ切った国民に衝撃を与えて従わせるための儀式化された殺戮だったと述べています。

伊藤氏は自らの推論も加えています。1941年12月15日、ジョホールのスルタンの後継者が、爆撃で檻が開くことを恐れてジョホール動物園の肉食獣の処分を命じました。大達がシンガポールに着いたのはその2か月後で、彼女はこの出来事が大達に影響を与えた可能性が高いと考えています。

証拠からわかること、わからないこと

大達は命令について日記もメモも残していません。その動機は、近しい人々の証言をもとにまとめられた公式の伝記と、後年の動物園職員の証言から推し量るしかありません。それらの証言はすべてが同じ方向を向いているわけではありません。かつての部下の吉武恵市は、先見の明と首都防衛への責任感によるものだとしており、伊藤氏自身も、大達が東條首相を含む陸軍の指導者としばしば衝突し、できる限り国を守ろうとしたことは公平に記憶しておくべきだと述べています。命令の理由は「完全には理解しがたい」と彼女は書いています。

それ以前の動物園の役割

処分の前の数年間、政府は動物園を戦争の舞台に変えていました。1937年から内務省は上野動物園で軍馬・軍犬・軍鳩の愛国展覧会を開き、戦死した軍用動物の慰霊祭を行いました。ゾウのトンキーと花子は靖国神社で遺児たちのために芸をさせられ、軍馬・軍犬の慰霊祭では祭壇の前でひざまずかされました。

英語の名前は禁止されました。大阪のチンパンジー「ロイド」は「勝太」になり、京都のゾウ「カリヤニー」は大東亜共栄圏にちなんで「トモエ」になりました。大阪の人気者だったチンパンジーのリタは軍服を着せられ、旗の付いた銃を担がされました。動物園の鉄柵やベンチ、動物の名札も戦争のために供出されました。

軍服姿のリタ。大阪市立動物園、1938年

動物たちはどのように殺されたのか

上野動物園は1943年8月17日から9月23日までに14種27頭の動物を殺しましたが、毒はほとんど効きませんでした。計画を秘密にするために銃が禁じられたことで、職員は伊藤氏の言う「最も残酷なやり方」で殺さざるを得なくなりました。

薬物を扱える免許を持つ職員は一人しかおらず、飼育員たちはこのような方法で動物を殺したことがありませんでした。8月16日、空腹になった動物が毒入りの餌を食べるよう、対象の動物への給餌が止められました。毒が効かない場合は絞殺、それでもだめなら槍で刺すことになっていました。

最初の一週間

8月17日の夕方、飼育員は高松宮から贈られたメスのヒグマに、硝酸ストリキニーネ3グラムを混ぜた蒸かし芋を与えました。クマはすぐに食べ、1分もしないうちにけいれんを起こし、22分間もがき苦しんで死にました。

翌日、職員はメスのライオン、チョウセンツキノワグマ、そして「八紘」という名の若いヒョウを殺しました。八紘は、ある陸軍の曹長が中国の戦地で子どもの頃に見つけ、部隊のマスコットとして育てたのち、動物園なら安全だと考えて上野に送ったヒョウでした。八紘は2歳半でした。9月、曹長は戦地から電話をかけ、ヒョウは元気かと尋ねてきました。

日付(1943年)動物実際に行われたこと
8月13日ジョン(アジアゾウ)餌と水を断たれ、17日目の8月29日に死亡
8月17日メスのヒグマ、オスのツキノワグマストリキニーネ。クマは死ぬまでに22分かかった
8月18日メスのライオン、チョウセンツキノワグマ、ヒョウの八紘毒殺。遺体は剥製にされるか皮をはがれた
8月19日オスのヒグマ毒が効かず、棒の先に付けたメスで刺され、1時間半後に死亡
8月20〜21日若いチョウセンツキノワグマ、年老いたツキノワグマ若いクマは毒の後に槍で刺された。年老いたクマは5人の男と約45分格闘した末に絞殺された
8月22日ライオンのアリとカテリーナ、トラ、チーターアリは32分で死亡。カテリーナは肉を吐き出し、1時間37分後に心臓を槍で突かれた
8月24日メスのホッキョクグマ絞殺。首にワイヤーの輪をかけるのに30分かかった
8月26日ガラガラヘビ刺された後ワイヤーで絞められ、16時間後に死亡
8月27日ニシキヘビ、ヒョウ2頭、マレーグマニシキヘビは絞殺後に首を切られた。ヒョウ2頭は絞殺されたが記録上は毒殺とされた
8月29日オスのホッキョクグマ、アメリカバイソンホッキョクグマは5人の飼育員に絞殺された。バイソンは絞殺された後、斧とハンマーで打たれた
9月1日若いアメリカバイソンハンマーで打たれた

ライオンのアリとカテリーナは、1931年にエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝から昭和天皇に贈られたもので、エチオピアの近衛兵が港まで付き添ってきました。バイソンはウィリアム・ランドルフ・ハーストのサン・シメオンの邸宅から来たもので、太平洋を渡った最初のバイソンと言われています。

動物園が長官に伝えたこと

福田が大達に送った報告では、ほぼすべての死が毒殺と記されていました。実際には毒殺のほとんどが失敗していたため、福田が真実を明かしたのは1968年、著書の中でのことでした。飼育員たちは閉園後の夕方に動物を殺し、8月の暑さで遺体を保管できないため、翌朝には荷車で世田谷の陸軍獣医学校へ運んで解剖に回しました。その一部は剥製にされ、多くは皮をはがれました。

8月28日、福田はゾウの皮をはぐために、なめし剤140ポンドと生石灰190ガロンを用意しました。これには約1か月かかります。動物園は猛獣舎に「工事のため一時閉鎖」という札を掲げました。東京都が処分を発表したのは8月30日になってからでした。

剥製にされたライオンが後に元の檻に戻されたとき、それはまるでおもちゃのぬいぐるみのようだったと伊藤氏は書いています。空いた寝室にはヤギやブタが入れられました。

ゾウたち

上野の3頭のゾウは、毒殺も絞殺もされず、ほかのどの方法も効かなかったために、17日から30日をかけて餓死させられました。1940年代初めには日本の動物園に約20頭のゾウがいましたが、1949年5月には全国で2頭しか残っていませんでした。

防空訓練でガスマスクを着けたダンチ。神戸市立動物園、1938年

ジョン

インドから来たオスのジョンは、1924年にメスのトンキーとともに上野に来ました。ジョンには暴力的な過去がありました。1931年、とげの付いた象鉤で額を突いたサーカスの調教師・石川泰次郎を殺していたのです。ジョンの後ろ足は夜も鎖でつながれていました。伊藤氏は、動物園が餌を与えないことでジョンを従わせていたこと、ある飼育員が腹の下で干し草を燃やしたことも記録しています。

福田は8月11日までにジョンの処分の許可を得ていました。飼育員はジョンの好物の甘いパンを与え、その一部には青酸を注入しましたが、ジョンは毒の入っていないものだけを食べました。馬用の注射器の針はジョンの皮膚で折れ、耳の付け根に刺した二本目の針も折れました。薬を提供した陸軍獣医学校の職員もあきらめました。

8月13日、飼育員はジョンに餌と水を与えるのをやめました。17日目の8月29日、ジョンは倒れて死にました。その後、東京都の公園課はジョンのいたゾウ舎を、空襲の犠牲者のための棺500個の保管場所にしました。

トンキーと花子

ジョンと一緒に来たトンキーは動物園一番の人気者で、福田のお気に入りでした。花子は1935年にタイから来ました。飼育員の菅谷吉一郎と渋谷信吉は、2頭のメスゾウを殺すことに反対しました。菅谷はジョンの処分には同意しましたが、この2頭についてははっきりと拒みました。

福田はトンキーを救おうとしました。ゾウのいなかった仙台市動物園が8月11日にトンキーの受け入れに同意し、輸送は8月23日と決まりました。その日、井下は福田に、大達が激怒していると伝えました。福田は大阪や名古屋にも手紙を書いていましたが、動物を移す試みはすべて失敗しました。

2頭への給餌は8月25日に止められました。福田がゾウ舎に行くと、目に見えてやせたトンキーが後ろ足で立ち上がり、バナナをもらえると思って芸をして見せました。弱っていくにつれ、2頭は柵にもたれて立ったまま眠るようになりました。ゾウはもう起き上がれないとわかると、そうするのです。福田は見ていられなくなり、9月7日にゾウ舎を閉めました。

菅谷はひそかに少しだけ餌を与えていました。1950年の菅谷の葬儀で、娘さんは、父が家族の配給のさつまいもをどこかへ持ち出していたことを思い出し、一人で食べているのだと思っていたと話しました。それはゾウたちのためだったのです。

花子は18日目の9月11日、トンキーに鼻でなでられながら、飢えと脱水で死にました。トンキーは毒入りの芋を放り返し、青酸の入った水も飲みませんでした。トンキーが死んだのは30日目の9月23日でした。

動物園はゾウ舎に白黒の縞の幕を掛けました。喪に服しているように見えるその幕は、ゾウがまだ生きていることを隠すためのものでもありました。井下は福田に、大達には知らせるなと言っていました。

カバたち

上野の2頭のカバ、マルとその母親の京子は、1943年の処分リストには入っていませんでした。1945年3月の東京大空襲の後、動物園は餌不足を理由に2頭も処分することを決めます。飼育員は3月19日に給餌を止め、プールの水を抜きました。マルは餌も水もないまま14日間を過ごし、4月1日に死にました。京子は37日間持ちこたえ、ようやくトラック一台分の干し草が届いた4月24日に死にました。伊藤氏はこのカバたちも上野が意図的に処分した動物に数えており、上野の合計は29頭になります。

ライオン舎の前で射撃練習をする猟友会の会員たち。東山動物園、1941年10月

飼育員、子どもたち、そして隠蔽

動物を殺したのは、その動物の世話をしてきた人たちでした。記録からは、それが彼らをどれほど深く傷つけたかがわかります。福田は日誌に、命令を受けた会議の後、小雨の中を園内を歩くと、トラやゾウが柵のところに来て体をすり寄せてきたと書いています。彼は動物たちの目を見ることができませんでした。翌朝、福田は職員に命令を伝え、家族を含め誰にも話さないよう命じました。

福田は1か月で体重が16ポンド(約7キロ)落ち、何年も悪夢にうなされました。自分の担当の動物が殺される日に休んだ飼育員もいました。菅谷と渋谷は飼育の仕事から外され、管理人にされました。ジョンの腹の下で干し草を燃やしたことのある渋谷は、3頭のゾウの魂を肩に背負っていると語りました。トンキーに踏まれる夢を見続けたといいます。

渋谷はまた、死を無駄にしないよう、飼育員たちは死んだ動物の肉を食べたとも語っています。バイソンやゾウ、カバはひどい味で、脂ののったワニの肉が一番うまかったそうです。伊藤氏によれば、処分の後、ベテランの飼育員の中には酒に溺れる者もいました。1952年に上野が新しいカバのつがいを購入したとき、職員たちは祝いの席に加わることができませんでした。

沈黙と慰霊祭

東京都は8月30日、27頭を処分したと発表しましたが、その中にはひそかにまだ生きていた3頭が含まれていました。報道は検閲されていました。8月31日に訪れた動物学者の高島春雄は、「工事中」の札とともに閉ざされた檻を目にし、2日後に真相を知りました。彼は、動物園の動物は野生の動物ほど危険ではなく、人にとっての危険はほとんどないと考えていました。

動物園には子どもからのものを中心に抗議の手紙が殺到しましたが、すでに手遅れでした。9月4日、大達は浅草寺の貫主を招いて動物園で慰霊祭を行いました。来賓の弔辞は、動物たちは「お国のために命を捧げた」と述べました。高宮によれば、慰霊祭を提案したのは大達自身で、動物たちにかわいそうなことをしたのだから慰霊祭をやろう、と言ったといいます。

大阪の子どもたち

大阪市立動物園は記者に隠し通すことができませんでした。寺内信三園長は9月初め、動物は「近いうちに」処分されると報道陣に語り、その翌日に処分を始めました。報道の後、園長と市長のもとには、動物を疎開させてほしいと願う子どもたちなどからの手紙が届きました。先生に連れられて最後に動物たちを見に行った2年生の男の子は、自分のお小遣いを同封し、死ぬ前に動物たちにごちそうを食べさせてほしいと書きました。5年生の女の子は、もう殺されることのないよう、動物たちが草食動物に生まれ変わりますようにという祈りとともにお金を送りました。

大阪毎日新聞の上田記者は、厳しい検閲の下にあった1944年2月、問いを投げかける形でこの政策を批判しました。角のあるシカやバイソンもライオンと同じくらいの被害を与えうること、用心深い大型ネコ科の動物は非常時には檻の奥に隠れるだろうことを指摘したのです。また、処分の後、飼育員たちは落ち込んで昼食も喉を通らなかったとも記しています。

抵抗した園長たち

何人かの園長は、救えるものを救おうとしました。トンキーやヒョウのつがい、クロヒョウの子を疎開させようとした福田の試みは、すべて失敗に終わりました。長く大阪の園長を務めた林佐市は1943年1月に早期退職しており、これから起こることに向き合えなかったのではないかと推測する人もいました。京都の園長は、後で述べるように、コンクリートの寝室があるので逃げ出すことはまずないと警察に主張しました。名古屋の北王英一園長は1944年12月まで持ちこたえました。それでも、誰も拒むことはできませんでした。

1945年3月19日から餌と水を断たれた京子と丸(それぞれ4月24日と4月1日に死亡)。上野動物園、1945年3月

全国に広がる政策

上野から16か月のうちに、日本動物園協会の加盟園はすべて、一つの例外の可能性を除いて猛獣を処分し、サーカスにも同じことが命じられました。伊藤氏は、確認できるだけで動物園で少なくとも170頭、サーカスで133頭、合わせて303頭の動物が殺されたと数えており、実際の総数はかなり多いとしています。

動物園都市開始確認された処分頭数
上野東京1943年8月17日29頭(1943年に27頭、1945年にカバ2頭)
大阪市立大阪1943年9月4日26頭(24頭とする資料もある)
井の頭東京1943年9月6頭
到津遊園小倉1943年9月少なくとも2頭
鴨池鹿児島1943年10月6日15頭
熊本市熊本1944年1月16頭(1944年に15頭、1945年にゾウのエリー)
宝塚宝塚1944年3月5日多数、頭数不明
仙台市仙台1944年3月ごろ12頭
京都市京都1944年3月13日14頭
福岡市福岡1944年6月6日少なくとも3頭、ほかは数不明
神戸市神戸1944年7月24頭
栗林公園高松1944年末ごろ少なくとも1頭、ほかは数不明
東山名古屋1944年12月13日15頭(ほかにそれ以前に3頭)
甲府市甲府不明記録が互いに食い違っている

数字は伊藤氏が各動物園の園史、市の記録、新聞から集めたものです。15番目の動物園である大阪近郊の阪神パークは私営で、命令の前の1943年4月に動物を売却しているため、表には含めていません。朝鮮、台湾、満洲国の三つの動物園でも動物が処分されたことがわかっています。

様子見

上野の後、園長たちは神戸に集まりましたが、出席したのは14人中6人だけで、福田は欠席しました。彼らは自分たちの都市は首都ではないので上野のようにはならずに済むと期待し、檻を補強すること、本物らしく見せるために発煙筒を使った防空訓練を行うこと、そして動物が逃げることはないと市民を安心させることを決めました。

大阪

大阪市立動物園が処分を始めたのは9月4日、園長が記者に処分は「近いうちに」行うと語った翌日でした。伊藤氏が引用する作家の秋山正美は、上野が受けたような最後通告がなかったにもかかわらず、その素早さを不審に思いました。動物園は1943年9月から1944年3月までに26頭を処分しました。多くは貴重な牛肉に毒を仕込んで殺しましたが、それを食べなかったヒョウは絞殺されました。

動物たちは動物園にとって貴重な財産であり、伊藤氏はその価格も挙げています。月給が100円に満たなかった時代に、ホッキョクグマ1頭は1,500円の価値がありました。動物園はメスのホッキョクグマを1944年3月まで生かしていました。寺内園長は最初の処分までの数日で体重が11ポンド(約5キロ)落ちました。

京都

京都は、コンクリートの寝室が頑丈で、市が空襲を受けるとも考えられていなかったため、処分を免れると見込んでいました。原園長は警察に何も殺す必要はないと伝え、1943年の4月と5月には阪神パークからメスのゾウとキリンを買い入れてさえいました。

ところが1944年3月12日、陸軍の参謀長が訓練のために予告なくやって来て、午後3時、すぐに猛獣を処分するよう命じました。原園長は一日の猶予を願いました。翌日、職員は参謀長や警察、市の職員の前でヒグマとその母グマを撃ちました。12分後、息子のクマが再び立ち上がりました。確認をしなかった職員は2頭をそのまま一晩放置し、翌朝まだ生きていた2頭はワイヤーロープで絞殺されました。3月13日から25日までに14頭が死にました。

名古屋

最も長く抵抗したのは東山動物園の北王英一園長でした。1943年11月、動物園は「実験」としてエゾヒグマを毒殺し、ライオンを絞殺しました。北王は2頭のライオンを中国の張家口へ寄贈することに成功し、1頭のライオンは射撃練習用として地元の猟友会に売られました。

1944年12月13日、B-29が名古屋を襲いました。猟友会の義勇隊員約50人が千種警察署に集まり、内務省の命令を待ちました。命令は街が燃えている最中に届きました。彼らは動物園で北王を取り囲みました。北王は涙を流しながら「やってください」と言い、園長室にこもりました。猟師たちは45分のうちにヒョウ2頭、トラ1頭、ライオン4頭を撃ちました。これが日本で最後のライオンとなり、1949年まで日本にライオンは一頭もいなくなりました。

数日後、猟師たちはクマのためにまたやって来ました。今度は同行させられた北王は、胸の白い三日月模様を狙えるよう、ツキノワグマを誘って後ろ足で立たせました。クマは餌がもらえると思って立ち上がりました。その日、8頭のクマすべてが撃たれました。北王は何年もその夢を見ました。

次に猟師たちが4頭のゾウを求めると、北王は毎日のように陸軍の司令部と警察署に通い、ゾウは飼いならされていると訴え、鎖でつなぐことに同意しました。殺すならまず自分を殺してからにしてくれ、という趣旨のことも言いました。当局はそれ以上命じることはなく、4頭のうち2頭が戦争を生き延びました。

仙台とサーカス

仙台市動物園は赤字で、市は農場に転用することも検討していました。批判が高まる中、1944年春に12頭の動物を処分しました。

サーカスに与えられた期限は一週間でした。1943年10月21日、警視庁は28のサーカス団に、10月28日午前10時までに猛獣を処分するよう命じました。毒や銃によって133頭が殺されました。ライオン52頭、ヒョウ8頭、トラ2頭、クマ6頭、ゾウ7頭、ヘビ58匹です。動物はサーカスにとって生活の糧であり、まるで手足をもぎ取られたようだったと伊藤氏は書いています。

福岡と九州

東公園にあった福岡の動物園が空になったのは上野の9か月後で、最も記録の少ない動物園の一つです。この問題に関する日本語の主要な研究である秋山正美の1995年の著書は九州をまったく扱っておらず、そのため福岡の話はどちらの言語でもほとんど注目されてこなかったと伊藤氏は指摘しています。

日付出来事
1928年11月昭和天皇即位の記念事業の委員会が設けられ、動植物園の建設が計画される
1932年3月東公園が建設地に決まる
1932年9月28日東公園で起工式
1933年8月20日動物園が開園
1934年4月11日市長や議長が出席して開園式が行われる
1944年5月20日動物園が閉園
1944年6月6日大型動物が処分される
1944年6月7日慰霊祭が行われる
1945年6月19日米軍の空襲で福岡の中心部が焼ける
1949〜1950年市議会が新しい動物園の建設を承認し、南公園を建設地に選ぶ
1953年8月22日南公園に新しい動物園(現在の福岡市動物園)が開園

出典:福岡市動物園の沿革、福岡市議会史 第3巻、伊藤氏。

動物園の建設

市議会自身の歴史によれば、動物園は1928年の最初の提案から開園まで5年近くかかりました。資金集め、県からの東公園の土地の借り受け、地元の賛成と反対、建設地の見直しなどが遅れの原因となり、公園内の樹木の伐採も工事を遅らせました。費用の多くは市民が負担し、旧動物園に関する図書館の展示では、東京などの大都市の動物園に匹敵するものだったとしています。

動物園にいたもの

動物園自身の沿革のページによれば、敷地は5,096坪、総工費は15万円でした。動物舎が38棟あり、植物は100種以上ありました。開園時には65種164頭の哺乳類と124種500羽の鳥類のほか、爬虫類、両生類、魚類がいました。初日には約5,000人が訪れ、初年度は134日の開園日で約15万人が来園しました。入園料は大人15銭、子ども10銭、軍服姿の軍人は10銭でした。

伊藤氏は、ライオンやゾウのほか、当時の日本の動物園では珍しかったアシカやオットセイを含め、飼育動物は約700頭だったとしています。正門はハンブルクのハーゲンベック動物園を手本にしたもので、両側の柱からゾウの鼻が突き出していました。アシカ池の六角形のお堂が、現在大濠公園にある浮見堂です。

閉園と処分

図書館の展示によれば、動物園は餌の入手が難しくなり、空襲で動物舎が壊れるおそれもあったため、1944年5月20日に閉園しました。6月6日に大型動物が処分され、翌日には死んだ動物たちの慰霊祭が行われました。

記録に残っているのは、ほぼこれだけです。動物園の公式な50年史には「ライオン、トラ、カバなどを処分」とあるだけで、総数も一覧も方法も記されておらず、伊藤氏の表も「3頭+多数」としか書けません。伊藤氏はまた、動物園自身のウェブサイトに少なくとも3頭のゾウが写った1933年の写真が載っているのに、そのゾウたちがどうなったのかを記した記録がないことも指摘しています。アシカやオットセイについても何も書かれていません。熊本ではアザラシやアシカが飢え死にしており、ここでも同じことが起きたのかもしれませんが、私が調べた限りでは何もわかりませんでした。

戦後

1945年6月19日、米軍の空襲で福岡の中心部は焼け野原になりました。戦後、子どもたちや市民は動物園の再開を願い続けました。市議会は1949年、市制60周年の記念事業として動物園の建設を全会一致で可決し、翌年南公園を建設地に選びました。1951年4月に市長となった小西春雄は地元の財界に協力を求め、上野動物園長の助言も受けました。1952年11月には2,800万円の寄付が集まり、新しい動物園は1953年8月22日、69種143頭の動物とともに開園しました。開園までの間、西日本新聞の厚生事業団は、待ちわびる子どもたちのために玉屋百貨店の屋上で小さな動物園を開きました。

九州のほかの動物園

到津遊園(小倉)。鉄道会社が運営していたこの動物園は、県の警察部隊の本部として使うため1944年1月10日に閉園しました。戦時中の園長だった阿南哲朗は、この話を二度語り、その内容を変えています。1950年には、職員が日本刀でハイエナを刺し、サーカスに譲ったゾウは朝鮮で処分されたと語りました。1975年には、ハイエナはけががもとで死んだだけで、ゾウは公演中に死んだことになっていました。また、動物園はクマを毒殺し、最後のオスのライオンは自然死したとも書いていますが、伊藤氏はこれを、いずれにせよライオンは処分されていたはずだということを示すものと読んでいます。話が変わったのは悔恨の念からかもしれないと彼女は推測し、誰も彼を責めはしなかっただろうと述べています。

鴨池(鹿児島)。動物園は1943年10月6日から31日までに、ライオン2頭、クマ7頭、ワニ4頭、ニシキヘビ2匹を含む15頭を殺しました。動物たちが何かを察して餌を拒んだためストリキニーネは効かず、職員は近くの路面電車の線路から高圧電流を引き、電車が走り出す前の早朝に感電死させました。飼育員たちはワニを殺す気になれず、荷車に乗せて助けようとしましたが、1匹が逃げ出して通りで騒ぎになりました。11月6日には慰霊祭が行われました。

熊本。1943年12月、陸軍の命令が届きました。林六郎園長は、ほかの動物園が使った毒や銃ではなく、電気による殺処分を選びました。最初のトラのとき、飼育員は電線をつないだ竹竿の先に肉を付けて差し出しました。トラは穏やかな目で飼育員を見つめ、彼は耐えられずに走り去り、トラが肉に飛びついたところでスイッチが入れられました。1944年中に死んだのは、トラ3頭、ライオン2頭、ツキノワグマ2頭、そのほかのクマ3頭、ヒョウ2頭、オオカミ3頭の計15頭でした。園長は、ニシキヘビ、カバ、ゾウのエリーは猛獣ではないと主張して救いました。

それは先延ばしにすぎませんでした。1945年1月7日に林園長が召集され、同じ日にカバが餓死しました。アシカやオットセイは飢え死にし、ニシキヘビは寒さで死に、動物園は3月31日に閉園しました。4月、陸軍は新しい園長に、当時10歳のエリーを引き取ると告げ、兵士の食料にするためにエリーを殺すことに決めました。おそらく5月中旬のことです。電流を流したプールに入るのをエリーが拒むと、電線をつないだ棒の先に芋を付けて与えました。エリーの体はプールの中で解体され、水はいつまでも赤く染まっていたといいます。エリーを娘のようにかわいがっていた飼育員の金沢太郎は、エリーのことを語らなくなりました。終戦時には、1,600頭いた動物はほとんど残っておらず、職員も3人だけになっていました。

必要だったのか

必要ではありませんでした。処分は市民の安全のためには不要だったというのが伊藤氏の評価であり、その後の空襲がそれを証明しています。日本のどこでも、空襲で壊れた檻は一つもありませんでした。

  • 上野は1945年3月の東京大空襲を無傷で乗り切りました。動物園が受けた唯一の被害は1945年4月13日、ゾウ舎が中に保管されていた500個の棺とともに焼けたことでした。猛獣舎は無傷でした。
  • 大阪は1945年3月13〜14日に約2,000発の焼夷弾を受けました。17の施設が焼け、鳥33羽が死にましたが、猛獣舎はどれも被害を受けませんでした。
  • 京都は大きな空襲を一度も受けませんでした。
  • 名古屋では、1944年12月13日も、動物園が被弾した1945年2月15日も、猛獣舎に被害はありませんでした。逃げ出したのは放飼場にいたバイソン1頭だけで、すぐに射殺されました。

空襲の間に檻から逃げ出した猛獣は一頭もいなかった、なぜなら動物がもう残っていなかったから、というのが伊藤氏のまとめです。京都の原園長や名古屋の北王園長のような園長たちは、補強した檻は持ちこたえ、檻に爆弾が当たれば中の動物も死ぬと主張していました。大阪毎日の記者は、おびえた大型ネコ科の動物は襲いかかるより隠れると指摘していました。1936年に上野から逃げ出したクロヒョウも、身を隠したままでした。

ほかの国では

ほかの国の動物園も戦争中に動物を殺しましたが、このような形ではありませんでした。

  • ロンドン動物園はロンドン大空襲の1年前、1939年9月に動物の処分を始めましたが、イギリスはすでに戦争状態にあり、判断は動物園自身のものでした。
  • ベルファスト動物園は1941年4月の空襲の際に動物を処分しました。
  • ベルリン動物園とハンブルクのハーゲンベック動物園は、攻撃を受けた後に動物を処分しました。
  • ブロンクス動物園やフィラデルフィア動物園などアメリカの動物園は非常時の計画を作りましたが、判断は動物園や運営団体に任されていました。

伊藤氏は、全国規模で組織的な政策を実施した国はほかになく、予想される空襲のこれほど前に動物を殺したヨーロッパの動物園もなかったとしています。ドイツやオランダの一部の動物園は軍の命令で動いたかもしれませんが、国全体で一律に行われたわけではありません。彼女は日本の事例を異例で特異なものと呼んでいます。

何のためだったのか

伊藤氏は、動物の処分を、市民を動員するための大達の施策の最初のものと読んでいます。1944年、大達はさらに東京の学童疎開と、防火帯をつくるための建物疎開を進め、内務省と軍は両方の政策を全国に広げました。処分によって人々の考えが変わったかどうかについて、彼女は述べていません。彼女の評価では、市民の安全には何の役にも立ちませんでした。

その後

命令を出した人物が裁かれることはなく、動物たちのことが清算されることもありませんでした。わかっていることの多くは何十年も後に、それも断片的に明らかになったものです。

大達

大達は1944年7月に内務大臣となり、1945年4月に辞任しました。占領当局は彼を戦犯容疑者として拘禁するよう命じ、1945年12月16日に巣鴨プリズンに入りました。1947年8月31日、裁判にかけられることなく釈放されましたが、その大きな理由は、近衛首相による戦時中の一国一党組織・大政翼賛会への参加を拒んでいたことでした。1946年に公職追放となり、1952年に追放を解除されました。

1953年に参議院議員に当選して文部大臣に任命され、1954年には教員の政治活動を制限する法案を成立させました。1955年9月、胃がんのため63歳で亡くなりました。獄中の日記には、動物のことは何も書かれていません。

真実が明らかになるまで

福田が上野の本当の話を明かしたのは、四半世紀後の1968年でした。到津遊園の阿南は、1950年と1975年で違う話をしています。多くの動物園の園史は日付も数字も記しておらず、互いに食い違っています。2008年に伊藤氏が名古屋の動物園の幹部職員に戦時中の記録について尋ねると、記録はなく、何も知らないという答えでした。市の職員は数年ごとに動物園の部署を異動し、実際に処分にかかわった人々の多くはすでに亡くなっていると彼女は記しています。

戦後、政府は戦時中の行き過ぎの責任を軍に押し付けるようにもなりましたが、小森氏は、動物園の処分については軍の命令はなかったと強調しています。

慰霊

ほとんどの動物園は戦時中に慰霊祭を行い、仏教のならわしにならって慰霊碑を建てました。伊藤氏は、それらは主に処分にかかわった人々の罪悪感を和らげるもので、動物たちのためにはほとんどならなかったと考えており、京都の獣医だった滝沢氏も慰霊祭を偽善的だと感じていたことを紹介しています。

エルドとマカニー、そしてぞう列車

終戦時に残っていたゾウはわずか数頭で、1949年5月には、名古屋・東山動物園のエルドとマカニーが日本でたった2頭のゾウでした。その月、台東区の子ども議会を代表する東京の2人の子どもが名古屋を訪れ、上野動物園に1頭を貸してほしいと北王に頼みました。北王は2人をゾウ舎に連れて行き、2頭を鉄の扉で隔てて、子どもたちに見せました。マカニーは額から血が出るまで扉に体当たりしました。北王は、それだけ2頭は離れられない仲なのだと言って断りました。

代わりに北王は、子どもたちのほうからゾウに会いに来てほしいと呼びかけました。日本の鉄道を管理していた占領当局は臨時列車を認めず、鉄道職員が何度も頼み込んでようやく許可が下りました。最初の「ぞう列車」は1949年6月18日に約1,400人の子どもを乗せて彦根を出発し、6月26日には約1,150人を乗せた列車が上野を出発しました。ぞう列車はまだ焼け跡の残る街々を抜けて、合わせて1万5千人の子どもたちを名古屋へ運びました。

マカニーは1963年9月に推定約66歳で死に、エルドもその10月に推定約58歳で後を追いました。動物園では毎年、動物愛護週間に2頭の慰霊祭が行われ、園内には慰霊碑が建っています。

福岡に残っているもの

  • 大濠公園の浮見堂は、東公園の動物園のアシカ池から残った建物です。
  • 市の図書館によれば、ゾウの門柱は馬出小学校の校庭の一角に保存されています。授業の行われている学校なので、見学の際は事前に確認してください。
  • 1953年に開園した南公園の福岡市動物園が、東公園の動物園の後継です。
旧福岡市動植物園の正門

まだわかっていないこと

未解明の点の多くは福岡そのものに関するもので、基本的な日付についても資料によって食い違いがあります。

  • 福岡の動物園が処分した動物の数、その種類と方法。動物園の50年史が挙げているのは、ライオン、トラ、カバ「など」だけです。
  • 動物園の1933年の写真に写っているゾウたちのその後、そしてアシカやオットセイのその後。
  • お堂が移されたのはいつか。大濠公園の公式サイトと市の文化財パンフレットは1949年としていますが、市立図書館の展示は1974年としています。池にいたのがオットセイだったのかアシカだったのかについても、資料によって異なります。
  • 動物園が開園したのはいつか。市議会史と動物園自身のページは1933年8月20日で、開園式が1934年4月11日としています。伊藤氏は1933年6月としています。新しい動物園の開園についても、伊藤氏は1953年6月としていますが、動物園自身のページは8月22日としています。
  • 福岡に動物たちの慰霊碑があるかどうか。私は見つけることができませんでした。
  • 大達自身の考え。大達はこの件について何も書き残しておらず、ジョホール動物園との関連は伊藤氏の推論であって、記録に残る事実ではありません。

さらに調べるには

  • 『福岡市議会史』第3巻。動物園に関する章がオンラインで公開されており、動物園の設立とその歩みを扱っています。
  • 動物園の50年史『福岡市動物園50周年記念誌』(2003年)。伊藤氏が1944年の処分の典拠としているものです。
  • 伊藤氏が引用している、旧動物園の正門跡に関する2007年5月22日の朝日新聞の記事。
  • 『福岡近代絵巻』(福岡市博物館、2009年)。市の文化財パンフレットに載っている東公園の動物園の写真の出典です。
  • 福岡市総合図書館が所蔵する動物園の古い絵はがき。

出典

主な出典:Mayumi Itoh(伊藤真由美)『Japanese Wartime Zoo Policy: The Silent Victims of World War II』(New York: Palgrave Macmillan、2010年)、DOI 10.1057/9780230117440。全国についての記述は第1〜6章、第9〜10章および巻末年表に基づいています。引用や飼育員の証言の多くは、伊藤氏が引用する園長や飼育員自身の著作に拠っており、その中には福田三郎『実録上野動物園』(1968年)も含まれます。

福岡に関する出典:

参考文献:Frederick S. Litten「Starving the Elephants: The Slaughter of Animals in Wartime Tokyo's Ueno Zoo」The Asia-Pacific Journal(無料で閲覧可)、秋山正美『動物園の昭和史』(1995年)。

数字や日付は2026年10月時点のこれらの資料に基づいています。資料によって食い違いがある場合は、本文中にその旨を記しています。